
昭和51年刊 毎日新聞社長野支局編 『高校風土記』より
校歌
校 歌
作詞・臼田 紀六
作曲・荻原範次郎 清水 弥平
1 正義の旗幟潔き名の 高矣ケ丘に聳え立つ
摩天の楼ぞ健児わが 希望に映ゆる学舎よ
2 四阿の雪とけ初めて 千曲の流れとう鞳の
曲を奏でんこの朝明 雄志臥龍によそへつつ
3 剛健の意気高潔の 美風眉庇に輝ける
徽章に示す健男児 今はた腕は高鳴るを
4 五岳の勇姿アルプスの 崇高き偉容わが前途
守るに似たりいざやいざ 奮い起ちなむ諸共に
須坂高で現在、歌われている校歌と第一回生が歌っている校歌とは歌詞は同じだが、メロディーが若干、違う。それにはわけがあるが、校歌にせよ応援歌にせよ、そこには先生や生徒の情熱が刻まれているものだ。
創立当初「ゲンティアナ・スキャバラ・ミュージカル・ササイアティ(りんどう音楽クラブ)」というしゃれた名前の音楽クラブがあった。森山貞治、故青木与三郎(昭3)、望月英雄(同・島屋合名会社社長)らが須坂高女(現須坂東高)から清水弥平(昭和23年、須坂中は学制改革で須坂西高となるが、のちに清水はこの須西の初代定時制主事となる)を呼んでオルガン、バイオリン、声楽を習っていた。一方、生徒数が増えてクラブ活動が活発になると、他校との対抗試合も多くなった。母校応援のときは校歌をうたって応援したのだが「このメロディーではちっとも気勢あがらない。みやびやかな旋律で女性的だ」(森山)ということで、りんどう音楽クラブが中心となって清水の自宅に駆け込んだ。「今の曲を勇猛まい進で、ドンドン進むような曲に変えてほしい。その新しい曲を一週間後にあるわれわれの最後の運動会に、元気いっぱいうたいたい。ぜひ、頼む。」
清水は「どんなに急いでもあと一週間では・・・」といったものの、あまりの熱意に動かされてついに承諾。その後、清水は「この校歌は臼田紀六教頭が全霊を傾けてつくった詩だ」と何度も何度も読み返し、そのたびに一番の歌詞にある摩天の楼へ向かった。広い畑の中におごそかに聳え立つ三層楼の前に立ち、四阿山、アルプス連山など美しい景色に恍惚としていた。同時に、グラウンドからは若者の元気に満ちた声が聞こえていた。そのとき、不意に“ソソドード”のメロディーが体を走った。「これだ」とすぐ家に帰り、作曲。数日後、体操場に生徒を集め、手を打ち鳴らして練習した。そして、クラブ員の望み通り運動場で声高らかにうたわれた。
しかし、清水はのちになって、この曲が式場でも歌われることを思って「セイギーノハタテ」を「ハターテ」に改めた。この改めに対し岩崎初代校長も四番の「ゴガクーノユウシー」が「ユウウーシ」と変わったのは「堂々として雄大、かつ落ち着きがある」と絶賛した。また、竜胆会長の小林敏雄(昭4)も「補曲される以前の曲は応援にも向かず気楽にうたえる節ではなかったが、新しい曲は非常にいい歌になった」と話す。これが現在の校歌だ。
ところが、その後、水泳部が県下で連続優勝し、応援も非常に盛んになると「今の校歌でもまだ優美な感じがする」という声が出てきた。そこで、昭和7年に応援歌を募集して伊藤祥久の作詞が選ばれ、今でもうたわれている。「校歌の印象が強すぎて、校歌とのミックスになったようだ。数年前にグラウンドで応援歌を聞いたが、何か元気がない。しかし、自分の歌がうたわれ続くのは感慨無量だ」と伊藤は語る。また、水泳部エールの作詞者はプール建設の頃水泳部にいた鈴木常夫(昭9・青葉印刷)で「他の水泳部員といっしょに考え、質実剛健の精神を盛り込んだ」と話す。
夕礼の訓話
定時制は昭和20年から26年の名校長・伊藤郷平(前愛知教育大学長)と故清水弥平との出会いで産声をあげた。戦後の食糧難、人心荒廃のなかで伊藤の“夢”は「勤労青少年に教育のチャンスを与えたい。そのために専任教師が十分いて、照明施設は昼間のように明るい定時制を設けたい」というのだった。
一方、清水は若いときから働きつつ学ぶデンマークの国民高等学校を理想として「勤労青少年のためにがんばりたい」と情熱を燃やしていた。それを知っている伊藤は内心では清水を定時制主事にしたいと考えていたが、当時は定時制の教官を率先して引き受ける時代ではなかった。同時に、清水が県立短大の教官という身分だったため、いささか不安を持っていた。しかし「清水以外にない」と昭和23年2月、伊藤は病床中の清水をたずね、自分の理想を熱意をこめて語った。すると突然、清水は病をも忘れて、病床から起き上がった。「私が主事ではいけないでしょうか」 この言葉と同時に、二人は思わず両手で握手をしていた。二人の教育理念が溶けあったこのときの感動を、伊藤は今でも生き生きと話す。
清水は昭和31年まで定時制主事を務めたがその間、県音楽科指導員も兼ね、同校を去ったあとは須坂公民館長、幼児音楽教室・泉園の園長などを歴任。この間に県教委から社会教育功労者として表彰されている。
クリスチャンでもあった清水の担当は音楽だが、生徒達に最も影響を与えたのは心に食い込むような“名訓話”であった。特に毎週水曜日の夕礼では水を打ったような静けさのなかで“働きながら弁護士になった人”の例を出して語った。「どんなガキ大将でもこの夕礼だけは静かに耳を傾けた」と尾崎清子(昭30・旧姓大木・須坂東高事務員)が話すほど清水の話は心に響き、なかには感動して泣き出す生徒もいた。清水の影響力で「自分の力以上のものが発揮された」と語るのは小林正男(昭27・都立第五商教諭)。「あたたかく包み込むようだった」とは初代生徒会長の井上仁(昭和25・山田小教諭)だ。さらに6キロも離れた上高井郡高山村から通っていた小林正義(昭30・旧姓越・小布施郵便局)は「夕礼の話に勇気づけられて、雪の降る山道を自転車をかついで帰った」と話す。また、清水の人生論を聞いて、佐藤博(昭27・森上小教諭)は「自分も頑張れば、望みがかなえられるのでは………」と考えたという。
この清水の人望にひかれて、六人兄弟中五人が須西の定時制へ進んだ家族がある。和久井袈裟太郎一家で「経済的な理由もあるが、働きつつ学ぶ精神が人間づくりによいと考え、清水の薫陶を期待した」と語る。二男の輝男(昭31)は清水に耳がいいといわれてピアノの調律師になったが、その他はすべて卒業後、精薄施設に勤め「精薄一家」とも呼ばれていた。長女の和田恵子(昭30・旧姓和久井)は「生糸会社で重い荷物を運びつらかったが、清水先生の言葉に支えられた」と話す。
しかし、昭和28年、清水が三年生に対して女子は家庭科、男子は化学という選択制を決めたところ、酒井須三子(昭30・旧姓唐沢)、尾崎ら七人が「単なる料理講習よりも化学を学びたい」と授業をボイコットしたことがあった。これは清水に反抗した懐かしい思い出だ。ともあれ「先生は音楽を通じて情操教育に貢献し、生徒のため一筋に生きた教育者だ」と清水のあとを引き継いだ定時制主事・田中寛(富屋顧問)が語るように、清水はいまだに生徒の心に生き続けている。
地域の学校
定時制初年度の志願者は193人。そのうち43人が振り落とされた。最初は裸電球一つなく、薄暗くなって黒板の字が読めなくなると授業は中止した。図書館の施設もなく、四年間一度も休まなかった和田静夫(昭27・協和電工社長)は自分で高さ六尺の本棚を作り、小布施からリヤカーで運んできた。皆喜んで使ったこの本棚は今でも図書館に堂々としている。
こんな環境でも生徒達は燃えていた。青山学院大に進んだ小林正男の英語の上達ぶりはものすごかった。往復の電車、休日など近くに住む英語教師・松本良子(旧姓荒井)のもとへせっせと通った。毎日1時、2時までこっそり勉強し、ときには畑仕事を抜け出して「急にわからないことができた。教えて」 と松本の家へ駆け込むこともあった。松本は「入学時はABCも知らなかったのに、二年生で英語をほとんどマスターした」と感心する。さらに、松本はこの小林と新井久夫(昭26・国税局)の三人で「歌で元気を出そう」と帰りの最終電車で顔をよせあって、小さな声でよく合唱したという。
一方、会社勤めの女子生徒の中で信大に進んだ小林小婦み(昭27・旧制若林)は寮生活で、十時の消灯後はそっと起きて廊下や便所のあかりで勉強した。「腹がすいたね」が合い言葉だったと和田恵子は話す。休憩時間にコップ一杯の脱脂粉乳ミルクが出たが、松本も「これでは健康によくない」と思ったほどだ。食事といっても「酒井須三子、尾崎清子らが十円のコッペパンを食べながら通ったという程度。また、遠距離通学もつらかった。上高井郡仁礼村(現須坂市)から通っていた坪井今朝生(昭30・須坂市役所)は山道が急なため、自転車をかついで帰ることもしばしば。「おかげで体が丈夫になった」と話す。八キロ離れた高山村の竹内俊一(同・東京鉄道郵便局計画課副課長)は「狸が出る山道を一人寂しく帰った。雨の降る夜道は雨音が何とも不気味だった」と思い出す。
授業中の生徒は真剣だった。「私の言葉を一字一句じっとにらんでいた。まるで、自分が吸い取られるようだった」と山岸亘(現長野工専助教授)は語るし、黒岩一雄(昭29・旧制上野・整形外科)も「勉強する雰囲気で満ち満ちていた」という。昭和30年頃までは進学率もよく、修学旅行では全日制の生徒に「オーイ、昼間」と呼び、相手も「何だ、夜」と互いに対等の気迫があった。国体の自転車競技で優勝した小山照夫(昭30・セントラル自動車販売取締役)は「生意気のようだが、逆境に打ち勝つことで社会のリーダーにもなれる」と定時制の強みを語る。