■「第27回りんどう祭」パンフより■
昭和29年(1954年)第1回りんどう祭開催、前年度までの「文化祭」の名称を「りんどう祭」と改称。山岳部の展示、水泳部の泳ぎ方の図解展示を始めて行う。
昭和30年(1955年)第2回、10月開催。開催期間2日間。生物部では黒岩喜久雄先生自慢のバラの展示、放送委員会のテレビ放送の開放、カムカムクラブの英語劇「レ・ミゼラブル」、西校喫茶に人気集中。
昭和31年(1956年)第3回、9月開催2日間。映画祭はこの年より始まる。「文なし横丁の人々」。放送委員会のレコードコンサートが行われた。
昭和34年、台風7号による被害のため第6回は中止となり、クラブ発表のみが行われた。
昭和35年(1960年)第6回、ブラスバンドが結成され初演奏する。ファイヤーストームに女子が初参加し好評であった。
昭和36年(1961年)第7回、9月開催3日間となる。
昭和37年(1962年)第8回、北信初の7月開催となる。そのため来校者が増えた。
昭和38年(1963年)第9回、ファイヤーストームにフォークダンスが導入される。しかし、その際、美術部、時事研の神輿に重油をかけるなど大混乱が生じた。
昭和40年(1965年)第11回、名称を「りんどう祭」の平仮名に統一。りんどう祭賛歌作成。初めてアーチに杉の葉を使う。この頃は、映画祭、音楽祭、演劇祭が好評であった。
昭和41年(1966年)第12回、先輩より「臥龍魂」の幟が贈られた。
昭和45年(1970年)第16回、この頃は学生運動が盛んで、安保、沖縄問題、討論会などの企画がみられた。
昭和48年(1973年)第19回、この年だけ7月4日間開催となる。
昭和49年(1974年)第20回、前年まで本館屋上に置かれていた「龍」が、中庭に作られたが、目立たず評判も今ひとつであった。
昭和50年(1975年)第21回、この頃の仮装寸劇は、一般的にかなり風俗が乱れており批判的な声も多かった。また、この年より「龍」がグランドに作られるようになった。
昭和54年(1979年)第25回、「ギャング」の愛称で親しまれてきた高木正弘先生が亡くなられ、その遺作となった「龍」が後夜祭のファイヤーストームで、先生の魂をのせて昇天するかのごとく竜巻を伴って燃え尽きた。以後、平成16年の今年で第50回を数えるにいたる。